昔々、殷周秦漢三国(魏・蜀・呉)秦、と「もしもし亀よ亀さんよ」の歌を替え歌にして中国の国の名前を覚えた気がします。

しかし歴史は当然そんなに呑気なものではありませんね。

故事成語というものは、わりと日常的に使用されるものです。

故事について

故事とは、現代のしきたりのもとになった昔からの事柄や物語の事です。

もとになるものは国語ではなく、中国の漢語です。「故」は「もと」と読まれる事がありますね。

古来から日本には漢字の意味をそのまま音読みして理解する事に加え、中国語(漢語)を一回日本語(国語)に翻訳しその言葉の意味を用いる事も多くあります。

分かり易くカジュアルにしたようなものも存在し、実際そのように使用されています。

日本人と漢字

日本人が漢字に親しみはじめたのは、おおよそ奈良時代だと考えられています。

もっと以前から漢字は伝えられていましたが、発音や使用法について具体的に研究されるようになったのは、カナが出来始めた平安時代くらいだと考えられています。

 

中国で使われている漢字と日本での漢字は、発音も意味も異なるものが多くあります。

故事は漢字で表記されるものですから、意味が異なるものも多くあります。

漢字の理解と共に、日本にあわせた理解や意味、オリジナルの平仮名も使用しそれを理解するようになったという訳ですね。

「天高く馬肥ゆる秋」について

「天高く馬肥ゆる秋」の元とされる故事は「雲淨妖星 秋高塞馬肥」という漢語です。原典は『贈蘇味道』。

筆者は杜審言(としんげん)で、杜甫のおじいさんにあたり、唐の時代に詩人として活躍した人物だそうです。

 

書き下すと「秋になると北方の異民族(匈奴だと思われる)が馬を太らせて攻め入ってくる。

準備を怠ってはならない」という戒めをあらわしています。

塞馬(さいば)は北方の馬、妖星(ようせい)は不吉なことのたとえです。

 

それが転じて現代では「秋になると空が澄み渡り高く見え、馬も肥え太る。

すがすがしく好ましい時節ですね」のような意味で使われています、秋高く、が天高くになったのは、日本ではその方が意味が通りやすいからだと考えられます。

このような言葉が生まれた事情や背景など

漢民族は紀元前から、周囲に存在する無数の多民族に攻め込まれてきました。

多くは騎馬民族だといわれています。

 

中国は非常に大きな面積の国です。

同時に国境を接する国、および異なる民族たちが多い事になります。

 

その為、紀元前から多民族との関係は常に悩みの種でした。

漢の時代は遊牧民族の匈奴、唐にはトルコ系の突厥(とっけつ)、宋や金の時代になるとモンゴル系民族の台頭などが目立ちます。

モンゴル民族は後に「元」を建国します。鎌倉時代に日本にもやってきた元寇の人々です。

どの時代も争いは絶えませんでしたが、この辺りの厳しい攻防は推して知るべし。

 

特に唐の末期には北方の騎馬民族との関係がさらに悪化したと言われています。

モンゴル系の契丹(きったん)と呼ばれる人々です。

 

彼らの長の耶律阿保機(やりつあほき)という人が唐の次に大契丹国を作りました。

後に、遼という中国風に国の名前を変えています。

 

こういう事が起こった背景には、北方民族たちが単純な武力のみの侵攻ではなく、中国の事を良く知るようになり知恵を持つようになってきたという事情があるようです。

異なる民族との複雑な関係は現代でも続いています。

地図を見れば、中国におけるシンチャンウイグル自治区(土地の多くはタクラマカン砂漠)やチベット自治区(多くは高原であり、中国との境には大きな山脈が連なっています)の占める面積の大きさに驚きますね。

万里の長城の目的と役割

万里の長城は、地図上で見ると奇妙な形に見えます。

現存するものも含め、何を目的としたものなのか、見るだけではすぐに分かりません。

しかもとても長く、わざわざ建築しにくいであろう土地を通っている箇所も多くあります

 

漢民族は自らの土地や人間、財産を守る為に壁を作りました。

万里の長城は古代ではもっと低く、いわば土の壁のようなものだったことが分っています。

それをより強固にし、完璧に近づけたのが秦の始皇帝です。紀元前221年から207年までが秦の時代です。

 

始皇帝の功績で最も有名なのは、中国の統一と共に言語を統一させ、皇帝を名乗り万里の長城をより強固なものにした事でしょうか。

始皇帝の時代に現存したとされる万里の長城が一番長いものだったと言われています。

 

万里の長城は中国語で書くと漢字が違いますが、やはり「城」という漢字が入ります。

中国語の「城」と日本の「城」は異なる建造物です。

 

日本の城は、主に中心に存在するものです。

その周囲に城下町が栄え現代においても中心的役割、目印の様な役割を担っていると捉えていいかも知れません。

 

中国における城は、都市を取り囲むように築かれるのが特徴です。

城の内側が城、外側が郭(き)と呼ばれます。

日本の感覚からすると、城壁のように見えるかも知れません。

 

万里の長城はその通り、壁のような役割を担っていたと考えられます。

建設の目的は、異民族から攻め入られる事を防ぐ為であり、だからこそ、建設の難しい山間部にも建設されました。

 

いわば時代によって必要に応じて建設されたものだから、一見奇妙な建造物に見えます。

現存する万里の長城は多くはなく、時折修復されています。

いまでも完成はしていないのです。

天高く馬肥ゆる秋と歴史

中国は歴史を大変重んじる国です。

同時に言葉を重視する国でもあります。

古い歴史は言語によって、あるいは後に残される建造物などにより語り伝えられるものだからです、となん語り伝えたるとや。

※参考『角川 新字源 改訂版』1994/角川書店

『地歴高等地図 現代社会とその背景 最新版』平成12/帝国書院

『世界の歴史 1古代文明の発見』『世界の歴史 4唐とインド』『世界の歴史 6宋と元』昭和57/中央公論社

(ライター:おもち)